みつむらのブログ。

みつむらです。

The Blue 7

 夏休みと言っても、あまり休みという感じはしない。僕は普段よりバイトのシフトに入る時間を増やしていたし、進学校故に夏期講習なんてものもあった。それ以外の日の多くも、休み明けにある文化祭の準備の手伝いに費やされた。クラスでは劇をやることになり、僕にはその劇中に出てくる研究施設の研究員という脇役が与えられていた(クラスの皆には何故か物凄く似合っていると指摘された)。部活動に入っていなかったということもあって、僕は台本の読み合わせだけでなく、大道具、小道具を用意する要員としても駆り出された。兎に角、一日何もないという日の方が明らかに少なかった。

 その一方で、例の4人はちょっとした日帰り旅行を計画していた。ある日、文化祭の支度をほどほどに切り上げた後、いつものファストフード店で行き先を決めるための会議が開かれた。皆思い思いの食べ物を買ってから、席に着く。

「さあて、どこに行きましょう?」ヨシが切り出す。

「なんか夏っぽいところがいいなあ」ジョーが呟く。

「それならやっぱ海だろ」ケイちゃん便乗する。

「ちょっとベタかもしれないけど、江の島の方とかどう?」僕は思い切って提案してみる。

「ああ、江の島いいじゃん」

「全然ベタじゃないって」

 思わぬ共感が得られた。

「江の島かあ。江の島と言ったら、やっぱサザンかな」

 ケイちゃんが『勝手にシンドバット』のイントロを口ずさむ。

「おっさんかよ」とヨシがツッコむが、逆にジョーはケイちゃんに乗っかる。そしてサビの有名な時間を尋ねるところを、二人で掛け合いながら歌う。

「4時26分」

 途中で僕がいきなり割り込んで、皆に笑いが起こる。

「サザンだったらあれもいいなあ。『希望の轍』とか」

「あれ俺も結構好きだよ」

「なんだ、皆おっさんじゃねえか」

「うちは親父がファンなんだよ」

 すっかり話がそれてしまった。そのうち皆が自分の好きな夏の歌について語り始める。最近の曲が挙げられたと思ったら、いきなり古い歌の名前が出てきたりして、妙な盛り上がりを見せる。

「ショウは他になんか好きな歌ある?」ヨシに尋ねられる。

 僕はあの曲の名前を挙げようか少し迷ったけど、試しに言ってみることにする。

「歌じゃないんだけど、知ってるかなあ?久石譲の『Summer』ていう曲」

 流石に皆すぐには何の曲か出てこないようだ。

「ええっと、どんな曲だっけ?」

「あっ、思い出した。よくテレビとかで流れてる曲だよね」

 ジョーがあのメロディーを口ずさんだ。

「そうそう、それそれ」やっとわかってもらえて僕はほっとした。

「あの曲ってそんなタイトルだったんだ。全然知らなかったわ」ケイちゃんにとっては初耳だったようだ。

「確かに、言われてみればすごい印象に残ってるメロディーだよな。今度ちゃんと聞いてみよう」ヨシも興味を持ってくれたみたいだ。

「なんか懐かしさ感じられるんだよなあ」ジョーがしみじみと言う。

「俺たちまだ15年しか生きてないけどな」

 ケイちゃんがツッコんでまた笑いが起こる。

「いいんだよ。小学校時代の夏を思い出せるだろ」ジョーが弁解する。

「まあ、俺もこの曲のタイトルまで知ったのは中学の時なんだけどね」

 

 僕がこの曲をちゃんと知ったのは、中学2年の時だ。丁度金木犀の香りがほのかに感じられる、ちょっと切ないような季節だった。

 部活の練習で校庭の校舎寄りの場所にいる時に、その校舎からよくピアノの音色が僕の耳に届いてくることがあった。どこかで聴いたことのあるメロディー。素敵な曲だなあとは思いつつも、特に意識しすぎることもなく、何気なく聞き流しながら僕は練習に励んでいた。

 雨で練習が中止になったある日の放課後、僕はふと思いついて、あのメロディーの発信源を突きとめてみることにした。校内でピアノのある場所なんて一つしかない。早速一人で音楽室に向かった。

 目的地に近づくに連れて、ピアノの音は大きくなる。演奏者は今日もいるみたいだ。部屋の前まで来ると、流石にドアは閉まっていたが、そのドアに付いた窓から中の様子を覗うことができた。

 女の子だった。グランドピアノはドアの正面にあって、その前に座って演奏している。弾いているのはいつものあの曲だ。僕はその女の子のことをどこかで見たことがあったけれど、名前は知らなかった。僕は音を奏でる女の子の姿を眺め、その音色に耳を澄ませていた。

 演奏が終わり、余韻を味わった後、ふと何かの気配に気づいて、彼女はドアの方を向いた。顔が赤くなる。僕の顔も赤くなる。僕は逃げようとする。

「待って」

 ドア越しに声が聞こえた。僕は振り返る。ドアの窓から、女の子が椅子に座ったまま、少し戸惑いながらも手招きしているのが見える。僕も動揺しながら、ドアを開けて音楽室に入る。

「ずっと、見てたの?」少女はいかにも恥ずかしそうに尋ねる。

「いや、途中から、ごめん」僕も上手く言葉が出てこない。

 お互い黙ったままで、目も合わせられない。いたたまれなくなった僕は、思い切って口に出す。

「この曲、好きなんだよ」

 彼女は、えっ?という顔をして、僕と目を合わせる。僕は頭を掻きながらすぐに目をそらす。

「その、校庭で練習しているときにさ、よく校舎の方から聴こえてきたんだよ。どこかで聴いたことあって、いい曲だなあって思って。全然曲の名前とか知らないんだけど」僕はうまく言えないなりに声を出す。

 また静かになる。

「『Summer』ていう曲なの」ふと女の子が呟くように言った。

久石譲っていう人が作った曲。ほら、あの、ジブリ映画の音楽とか作ってる人なの。この曲は別にジブリの曲じゃないんだけどね」

「そっか。初めて知ったよ」

「うん。テレビとかで結構流れてるんだけど、皆名前までは知らないんだよね」

この時、彼女は初めて笑った。僕も笑うことができた。

「もう一回、弾こうか?」

「えっ、ほんとに?」

 女の子は頷く。

「じゃあ、お願い」

 少女はさっきと同じ曲を演奏し始める。僕も近くにあった椅子に座わる。心が安らぐ旋律。ちょっと前までの動揺が嘘のようだ。穏やかな気持ちになる。今までに感じたことのない至福が与えられる。そんな素敵な音楽が、今僕のすぐ目の前に存在していた。

 演奏が終わった。

「ありがとう」僕は礼を言う。

「いえいえ」彼女は返す。

「そういえば、もう秋なのに、なんで今『Summer』って曲弾いてるの?」
「ああ、別に理由なんてないよ。いつ聴いても、素敵な曲なことは変わりないし。それに、どんな季節の時でも、夏の雰囲気とか、景色って、割と思い出せるじゃん」

 僕は、ほんの数週間前までそこにあったはずの夏を、思い出してみる。

「言われてみれば、確かにそうかも」

「でしょ」女の子ははにかむ。

「あっ、あとまだ君の名前聞いてなかった、ごめん」

「あ、ほんとだ」彼女は驚いた顔をする。

「私はキクチサナエです。2年です。あなたは?」

「ニシムラショウスケ。俺も2年」

「なんだ、同い年だったんだ。お互い知らなかったのに普通にタメで話してたね」

 僕たちは一緒に笑いあった。

 

 サナエは小学6年の時までピアノのレッスンを受けていたが、中学に上がってからはレッスンを辞めて、自分のやりたい曲だけを独学で練習するようになったと言った。『Summer』は彼女にとって、その中でも特にお気に入りの一曲だった。音楽室で演奏するようになったのは、家にはスタンドピアノしかなく、ただ音楽室にあるグランドピアノを使いたかったからだそうだ。中学にはたまたま音楽系の部活がなく、ピアノも授業以外ではほとんど使わないのであっさり借りられたのだとか。

 昼休みにも大抵音楽室に来ているということで、僕はこの日以降、特に用がなければ、その時間にサナエの演奏を聴きに行くようになった。勿論部活がない日の放課後も顔を出した。彼女もたまにいない時があったけれど、何日も続けて来ないことはほとんどなかった。サナエは『Summer』だけでなく、他にもいろんな曲を弾いてくれた。音楽に疎かった僕に合わせて、久石譲の他の楽曲や、テレビでもよく流れるような比較的親しみやすいクラシック音楽が演奏された。どの曲も、夕暮れ時の穏やかなさざ波のように僕の心に澄み渡り、染み込んできた。そして僕はその情景を独り占めしている様な気分にさせられた。彼女の演奏会の観客は僕一人だけだったからだ。当時の僕にとってこの時間は数少ない幸せを感じられる時だった。

 しかし、幸福の時間はあまり長くは続かなかった。

 

 年をまたいで、2月のある日、珍しく大雪が降った。当然部活は中止になり、僕は音楽室に向かう。サナエは既にピアノの前に座っていた。何も弾かず、雪が音もなく降り積もる窓の外を眺めている。彼女の様子がいつもと違うことに気づく。普段の彼女が纏っている余裕のようなものが感じられない。僕の方に振り向こうともしない。お互いに何も話さない。しばらくして、サナエは意を決したように一つ深呼吸をし、ようやく僕の方を向いて話し始めた・・・

 

 僕はサナエに告白された。その時具体的にどんなやり取りを交わしたのか、よく思い出せない。僕もひどく動揺していたのだ。ただはっきりと言えるのは、僕が彼女の申し入れを断ったということだ。

 僕は彼女の演奏に何より感謝していたし、彼女に好感も持っていた。でもそれは、決して恋愛の対象としてのものではなかった。彼女にそんな気があったなんてことにも気づかなかった。ただ、僕は、彼女の奏でる音楽を聴いているだけで嬉しい気持ちになれたのだ。

 その日以来、校舎から『Summer』が流れてくることはなかった。僕が音楽室に行くこともなくなってしまった。やっぱり付き合ってあげればよかったのかなと思う時もあった。でもたぶんダメだっただろう。その時の僕には、そういう意味で彼女とちゃんと向き合える自信も、余裕もなかったからだ。

 でも、『Summer』という楽曲の美しさは、僕の心の中に残り続けた。あんな出来事があったのに、その後も僕がこの曲を嫌いになることはなかった。もしかしたら『Summer』には、そういう物事も乗り越える不思議な何かがあるのかもしれない。僕はこの楽曲を好きなままであり続けたのだ。

 サナエがその後、どういう道に進んだのか、知ることもなく僕は卒業してしまった。僕が言える立場でないないのはわかっているけれど、彼女は元気にしているだろうか。せめて、僕と同じように、今でも『Summer』を好きでいてほしい。