幻影
彼女から電話があったのは、夜の二十三時だった。
俺と彼女はごく自然と知り合い、ごく自然と仲良くなった。彼女は俺にとても優しく接してくれたし、俺は彼女に対し、少なからぬ好意を抱いていた。そして彼女も自分と同じ思いなんだと俺は思っていた。何度か二人きりでデートもした。
でも、ここだ、と思って俺が彼女に自分の思いを伝えた時、彼女はその気持ちに答えてはくれなかった。他に好きな人がいるのだと、彼女は言った。
「ごめんね。私がいろいろ誤解させちゃったんだと思う」
彼女は謝ったが、俺にはなぜ彼女が謝る必要があるのか理解できなかった。俺が思い違いをしていただけじゃないかと思っていた。
それ以来、彼女一緒に行動するようなことはなくなったけれど、どこかですれ違えば挨拶ぐらいは交わしたし、時間があれば立ち話だってした。あんなことがあった割には良好な関係が維持できてる、自分の気持ちも切り替えられている、とは自負していた。
そんな矢先、やけに蒸し暑かったある日の夜に、電話が鳴ったのである。
「こんな夜遅くにごめん。迷ったんだけど、あなたには伝えておかないといけないと思ったの」
彼女ははっきりと、でもどこか寂しげに話した。
「どうしたの?」
僕はなるべく優しい口調になるように言う。
彼女は一呼吸おいてから、言った。
「私、この街を出ていくことにしたの」
俺は彼女の言ったことをどう処理すればいいのか、すぐにはわからなかった。
「そうなんだ」
少し間をおいてから、俺は言った。それからしばらく、沈黙が続いた。お互いに何を次に何を言うべきか、すぐには思いつかなかったのだろう。
「どうしてそうすることにしたの?」
俺が最終的に思いついたことは、そんなありきたりな質問だった。
「うん。ちょっと探さなくちゃいけないものができたの。別に、自分探しの旅をするとか、そういうわけじゃないんだよ。あっ、でも、ある意味そんなものかもしれないけどね」
「でも、その探すものが何かは、言えないんだ」
「うん。そうだね・・・」
彼女はやはり、何だか申し訳なさそうに話す。
「それと、何でわざわざ俺に連絡くれたの?」
俺たちは恋愛関係どころか、今や親友という間柄なわけでもないのだ。そんな自分に何故こんなことを伝えてきたのか、不思議だった。
「私ね、気づいたの。あの時、私が思っている以上にあなたのこと傷つけてたことに」
「そんななことないよ。あの時は確かに残念ではあったけど、君が素直に答えてくれたから、嬉しかったよ」
「そんなことなくない」
彼女はまたはっきりと言った。
「あの時、あなたなら、ちゃんと断れば許してくれるなんて考えてたの。自分のことしか考えてなかった。色んなきっかけがあって、色んなことを思い知らされたの。何があったかは、話すと長くなっちゃうから、ちょっと言えないんだけど」
「大丈夫だよ。無理して話す必要はないから」
僕は、彼女が話すことに、真摯に耳を傾けようと努めた。
「うん。でも今は、とにかくあなたに謝りたいと思ったの。ここを離れる前に。私は間違ってた。ごめんなさい」
「そんなにことを大げさにしなくたっていいんだよ。君は今も昔も間違ってなんかいない。それに、あの時だって君はちゃんと謝ってくれてた」
僕は微笑みながら答えた。はっきり言って、彼女が何故そこまで罪悪感を抱えているのかよくわからなかった。ただ、彼女にも思うところが多々あったのだろう。彼女がそうすることで満足するなら、俺はそれで別に構わなかった。
「そうだったっけ?でもそう言ってくれるととても助かる」
彼女はやっと安堵したようだった。
「どこまでも行けるところまで行けばいいさ。俺はいつまでもここで待ってるからさ」
ちょっと気障なことを言ってみる。
「うん。ありがとう」
彼女は素直に返す。
またしばらく沈黙が続く。今度は彼女の方が先に口を開いた。
「最後にもう一つ言わなきゃいけないことがあるの。といっても上手く伝えられる自身はあんまりないけど」
「何?」
彼女は一つ深呼吸をしてから、意を決して言った。
「私の幻影を追いかけるようなことだけはしないでほしいの」
俺は彼女が言ったことに関して考えを巡らせてみる。
「私の言ったことわかったかな」
「わかったような気もするし、そうじゃない気もする」
彼女が、ふう、と息をするのが聞こえてきた。
「今はわからなくてもいいの。とにかく私がそんなこと言ってたって、覚えててくれるだけでいいから。はっきり言えば、私がそういう人間だったの」
「君が何かの幻影を追いかけていたっていうこと?」
「そう。だからあなたにはそうなって欲しくなかったの」
俺は彼女の語ってきたことについてずっと考えていた。
「私が言いたかったのは、これだけ。夜遅くに、急な連絡になっちゃってごめんね。私、もう明日には行かなきゃいけないの」
「大丈夫。構わないよ」
「うん。じゃあね」
「じゃあ、またいつか」
電話が、ぷつん、と切れた。
俺はベッドに横になってからも、ずっと彼女のことを考えていた。
彼女の探すもの、そして抱いていた幻想は、彼女の好きな人に関することだったのだろうか。彼女にそこを聞いてみるべきだったかもしれないと、少し後悔する。しかし、そこはもうわからないことなのだ。
彼女の幻影を抱く、ということがどういうことなのかもよくわからなかった。ただ、彼女のいうことは信じようと、強く心に決めた。
そんなことを考えているうちに、俺は眠りついた。