みつむらのブログ。

みつむらです。

The Blue 4

 これからいろんなことを語っていく上で、あまり気は進まないけれど、まず自分の生い立ちについて話さなければならないだろう。

 僕が十歳の時、両親が交通事故で死んだ。親戚の間では僕を孤児院に預けるというという話まで持ち上がったが、最終的に父の弟にあたる人物が僕の保護者になると名乗り出た。彼は既に奥さんを亡くしており、子供もいなかった。僕はこの叔父の家に移り、小学校も転校することになった。

 僕はただでさえ大人しい少年だったのに、両親を亡くしたことで塞ぎこんで、他人とほとんど会話をしなくなってしまっていた。転校先でも、なかなか友達ができなかった。心配した叔父は僕をほぼ無理やりに近所の少年野球チームに入団させた。もちろん最初からいろんなことが上手くいったわけではなかったけれど、運動は元々それなりに得意な方だったので、次第に僕はチームの中で頭角を現した。そうした中で僕はチームメイトとも仲良く会話できるようになり、彼らとの交流をきっかけに学校での生活にもある程度なじんでいった。野球もやればやるほど嵌っていき、中学三年まで続けることになった。

 けれども、チームや学校の仲間と、全くなかったわけではないが、一緒に遊んだりするようなことは少なかった。スポーツも勉強もそこそここなすことができたので、いじめられるようなことはなかった。しかし、彼らとの間に親密さというものを見出すことができなかった。

 僕の小学校に同級生の多くは、僕の家庭内事情を親伝いに聞いて知っていた。それ故に、彼らはそのことで僕をからかったりすることはほとんど無かったものの、少なからず僕のことを憐れみの目で見ていた。正直に言って、僕はその視線が嫌だった。僕は悲劇のヒーロー扱いされたいわけではなかった。両親との死別は確かに辛く、僕に深い傷を負わせた出来事ではあった。けれども、時の経過とともに、僕にはそのことが乗り越えなくてはならないことともわかりつつあった。しかし、その超越を彼らの視線が妨害していた。

 中学に進んでも、同じ中学の人が多くいたし、違う中学出身の何人かも彼ら伝いに僕の事情を知っていたようだった。僕は同級生たちのことを嫌ってはいなかったが、彼らと深く関わり合うことができなかった。このことが団体競技である野球をやめるきっかけになった。そして、同じ中学の人がいない高校に進学した要因の一つだった。

 加えて、叔父には大変よくしてもらっていて、最初の内はそれに素直に甘んじてしたのだが、自分が年齢を重ねるにつれて彼に負い目のようなものを感じるようになった。彼は決し的例とは表現できないアパートの一室に住み、その近くの町工場で働いていた。僕のことを養えないほどではなかったけれど、必ずしも裕福とは言えなかった。

 叔父にとって本来いるはずのない僕の存在が負担になっていることは、少し考えればすぐにわかった。僕はほしいものを買うことも我慢するようになった。高校に進学する際には、彼とも相談した上で奨学金制度を適用した。そういった行為が、今の自分にできる叔父に対してのせめてもの報いであった。結局のところ、僕はまだしばらくの間、過去の事実を乗り越えられそうにないと思っていた。

 

 そんな矢先に、僕はあいつらと出会ったのである。

 

 僕は入学したら、どういう人と仲良くなりたいとか、どういう人間に変わりたいとか、具体的に考えてはいなかった。だから彼らとの出会いはとても自然なものだった。

 彼らは僕の過去を知らなかった。彼らは僕に例の視線を示すことなく、僕をすんなりと受け入れてくれた。そして僕も彼らを受け入れることができた、と思う。もちろん、彼ら以外の学生も僕の事情を知らないわけだから、僕はあのいやな視線を感じることなく学校生活を過ごすことができた。

 当然、後に僕は自分の過去を彼らに話すことになるのだが、その頃には僕の中の多くの物事が変わってしまっていた。話した後、彼らは僕に同情してくれたけれど、あの視線を彼らの目から感じることはなかった。

 もしかしたら、あの視線は最初から僕の思い込みだったんじゃないかと、最近は思う。自分自身の生み出した錯覚だったんじゃないかなと。あいつらとの出会い以降、僕はごく自然に、何か新しいものに生まれ変わろうとしていた。